TL;DR
- 上野と谷中は徒歩二十分ほどの距離にあるが、「下町」としての残し方が根本的に異なる。鍵は二つの坂——清水坂と三崎坂の地形と用途の違いにある。
- 上野は明治以降の博物館・美術館・公園の制度に包まれ、「展示される下町」になった。谷中は寺町と職住一体の長屋が制度の外で持ちこたえ、「住み続けられる下町」になった。
- 東京都の人口動態統計を読み解くと、谷中・根津・千駄木の地区は、二十三区平均より住民の入れ替わりが緩い。これが景観の連続性を支えている。
- もっとも、外国人観光客の急増と短期賃貸の波は、両者の差を縮めつつある。二〇二〇年代後半の谷中は、新しい意味で揺さぶられている。
上野駅の改札を出て、不忍口から北へ向かう。動物園の塀ぞいに、清水観音堂へ続く坂が始まる。清水坂——徳川期にはすでに名のあった坂だ。観光客の足音が、舗装と石段とで音色を変えながら、しゃかしゃかと上がっていく。一方で、千駄木側から谷中霊園を回り込む三崎坂は、午後三時でも静かだ。猫が一匹、墓地の角の塀の上にいる。同じ「上野台地」の縁にありながら、二つの坂はまったく異なる時間を持っている。
上野——制度に包まれた下町
上野が「展示される下町」になったのは、明治の初め、東京府が当地を博覧会場として整備した時点に遡る。一八七七年の内国勧業博覧会から始まり、博物館、動物園、美術館、図書館、音楽学校が次々に集まった。東京国立博物館の前身を含む施設群は、いずれも国家の文化政策に支えられている。
結果として、上野の景観は「公園と施設」の制度が決めるようになった。アメ横の喧噪は表向きの混沌に見えるが、その背後では、上野公園・上野駅・京成上野駅という大きな構造体が、街区の動かし方を規定している。建物の建て替えは個別に進むが、街路の骨格は明治以来ほとんど動いていない。
一方で、町としての住民は薄い。台東区の人口統計を見ると、上野周辺の町丁目は商業地・業務地として登録され、住民人口より昼間人口がはるかに多い。看板建築の取材で歩いた神田周辺と同じ構造で、「住むより通う」街になっている。
谷中——制度の外で残った下町
三崎坂を上り切ると、突然、二階建ての木造家屋がずらりと並ぶ通りに出る。谷中銀座へ向かう「夕やけだんだん」の手前あたりだ。家屋の一階は店舗、二階は住居。職人の道具袋を提げた人が、ふつうにすれ違っていく。
谷中・根津・千駄木——いわゆる「谷根千」——が、上野とこれだけ違うのは、地理的条件と都市計画の二つが重なった結果だ。地理的には、谷中霊園と寺町の存在が大きい。江戸期に寺院が集中したエリアは、明治以降も大規模な再開発を受けにくかった。寺院は土地を売却しないし、霊園は永続性が前提だ。これが、街区の輪郭を百五十年以上にわたって動かさなかった。
都市計画の側でも、谷中は戦災を比較的軽くしか受けていない。台東区の戦災被害図を見ると、上野が広く焼けた一方、谷中の西側は焼け残った範囲が広い。木造長屋の街区が、そのまま昭和の終わりまで生き延びる土台になった。
住み続けることの摩擦
もっとも、谷中が「のんびり残った」わけではない。建築史家の陣内秀信が長く指摘してきたように、低層密集市街地は、相続のたびに分割と建て替えの圧力にさらされる。東京都都市整備局の防災都市づくり推進計画でも、谷中の一部は「整備地域」に指定されており、行政の側にも「現状のままでは持たない」という見方が一貫している。
裏を返せば、谷中の景観は、住民・寺院・行政・観光のすべてが綱引きをしているからこそ、いまの形でかろうじて残っている、と言える。誰か一人が手を抜けば、たちまち上野の方向へ傾く。
象徴的なのは、街路に並ぶ自動販売機の密度だ。別の記事でも触れるが、上野の自販機は商業地仕様の高密度・高ワット数のものが多く、谷中のそれは旧型の低出力モデルで、夜間も街灯がわりに点っている。同じ「東京の下町」でも、夜の照度が違う。
二〇二〇年代——観光と短期賃貸の圧力
二〇二〇年代後半に入ってから、谷中の景観は新しい揺さぶりを受けている。観光庁の訪日外国人統計では、東京を訪れた外国人の滞在先が「ゴールデンルート」から「ローカルエリア」へ広がってきており、谷中銀座周辺の混雑は、十年前とは桁が違う。短期賃貸プラットフォームに登録される物件も、ゆっくりと増えている。
もっとも、これは上野化への一方向の流れではない。観光が増えても、寺院が土地を売らないかぎり街区は動かない。むしろ、上野が「観光地・商業地・展示空間」に役割を分けたように、谷中も「住居地・観光通り・寺町」へと役割を細かく分割しはじめている、という見方もできる。
二つの「残し方」——どちらも一つの方法
上野と谷中を「保存された下町」と「生きた下町」と単純に対比するのは、たぶん正しくない。上野は制度によって街路の骨格を凍結し、その下で店舗が入れ替わる方式で「下町感」を維持してきた。谷中は寺院と長屋の二重構造によって、住み続ける人々の生活を景観に組み込んできた。どちらも、東京という都市が編み出した、規模の異なる延命策だ。
違いが鮮明になるのは、夕方だ。上野の坂はカメラを持った人々で賑わい、谷中の坂は犬を連れた住民で賑わう。同じ「夕暮れの下町」が、別の時間軸で動いている。東京を観察するという作業は、こうした地形と制度の重なり方を、坂の単位で読み直していくことに近いのだろう。
参考資料
- 陣内秀信『東京の空間人類学』(ちくま学芸文庫)
- 台東区「戦災復興記録誌」関連資料
- 東京都都市整備局「防災都市づくり推進計画」
- 観光庁「訪日外国人消費動向調査」
- 東京国立博物館「上野公園 文化財地区」資料

