文学と思考

翻訳と影——日本語に訳されなかった一冊について

読了 6 分

TL;DR

  • 「日本に翻訳されなかった本」をめぐる編集者同士の対話。なぜ訳されないか、訳されない本が残すものは何か、をめぐって意見が分かれた。
  • 翻訳市場は、ベストセラーと学術書の二極構造で、その中間にあたる「読まれるべきだが市場が薄い」本が訳出されない構造的な理由がある。
  • 翻訳の不在は欠落であると同時に、結果として日本語の言葉の選び方を独特に保ってきた、という見方もある。
  • もっとも、グローバル化が進む現在、「訳されない」という消極的な選択が、いつまで成立するかは別の問題だ。

編集部の机を挟んで、二人で話したことがある。一人は、長く海外の文芸を訳してきた編集者のIさん。もう一人は、人文書のレーベルを担当するOさん。ある夜、雑談のなかでIさんがぽつりと言った。

結局のところ、私が編集者人生でいちばん悔しいのは、訳せなかった本のことなんです。

その一言から、対話は二時間続いた。以下はそのときのやりとりを、後日メモから整理したものだ。

「訳されない本」とは何か

具体的には、どういう本のことを指していますか。とOさんが問い直した。Iさんはコーヒーカップを置いて、しばらく考えてから答えた。東欧の中堅作家の連作短篇、ラテンアメリカの実験詩、北アフリカの自伝的エッセイ——どれも、英語圏では十年前から評価が固まっていて、日本でも紹介の必要性は議論されてきた。けれど、結局訳されない。版元の事情、訳者の不足、市場の薄さ。理由はいくつもある。

Oさんは続けた。翻訳市場の構造を見ると、はっきりした二極化がある。一方の極にベストセラー候補があって、こちらは大手版元が版権を競る。もう一方の極に学術書があって、こちらは大学出版会や専門レーベルが少部数で出す。問題は、その中間にある本——売れるかは未知数だが、文学史的・思想史的には必要な本——の居場所がない。

これは、出版科学研究所などが公表する翻訳出版の動向にも一致している。日本書籍出版協会の関連データでも、翻訳書の点数自体は二〇〇〇年代以降ほぼ横ばいだが、その内訳が大型タイトルに偏っているという指摘は繰り返されてきた。

訳者の不足はどこから来るか

Iさんは、もう一つ別の角度を加えた。東欧文学を例にとると、東京・大阪・京都を合わせても、商業出版で本格的に動ける翻訳者は十数人いるかどうかです。一人が複数の言語を兼ねる場合もあって、結局、年間に新訳できる作品は限られる。版元が出したくても、訳者の手が空かない、ということが普通にある。

これは大学のスラブ語学科などの縮小と関係していますか。

無関係ではないでしょう。文部科学省の大学設置基準改正以降、外国語系の学科再編が進んで、希少言語の専攻が統合・廃止されてきた。翻訳者を育てる土壌そのものが、緩やかに痩せている。もちろん、独学で素晴らしい仕事をする人もいますが、構造的な底上げは難しくなっている。

「訳されないこと」が残すもの

議論が興味深い方向に進んだのは、Oさんが反対方向の問いを投げかけたときだった。逆に、訳されないことが、結果として日本語の言葉の選び方を独特に保ってきた、という見方はできないでしょうか。

Iさんは少し驚いた顔をしてから、ゆっくり答えた。その可能性は、確かにあると思います。たとえば、英語圏の文芸用語が即座に日本語に翻訳されて入ってきていたら、いまの日本語の文芸批評の語彙は、いまよりずっと均質になっていたかもしれない。訳されない時間が、日本語側に独自の用語を発明する余地を残してきた。

もっとも、と続けると、それは「日本語の独自性」を礼賛する話ではなくて、単に世界の文学が同期せずに別々の時計で動いてきた、ということに過ぎないかもしれませんが。

Oさんは頷いた。もう一つ、訳されないことの効用としては、原書で読む人を生んだ、というのがあるでしょう。文学と思考の読者層の一部は、明らかに原書経由で形成されている。たとえば、神保町の古書店「火事のあとの書店」で語った店主のように、英語・フランス語・中国語の原書を一冊ずつ仕入れて、買い手を待つ商売が成り立つのも、こうした読者がいるからです。

グローバル化のなかの「訳されない」

対話の終盤、Iさんはこう述べた。気がかりなのは、これからの十年です。生成AIによる機械翻訳の精度が上がって、出版社が訳者の不足を補おうとする動きが現実に始まっている。同時に、海外の版権市場では、英語経由で世界中の権利が一括管理される傾向が強まっている。

つまり、これまでの「訳されない」は、市場が薄かったから、訳者がいなかったから、という消極的な選択でした。これからの「訳されない」は、訳すコストが下がっているのに、なお訳されない、というより能動的な無関心になる可能性がある。

Oさんは、しばらく黙ってから言った。それは、編集者として、向き合うのが少し怖い変化ですね。

あとがきにかえて

二時間の対話が、何かを解決したわけではない。訳されない本は、いまも訳されないままだ。けれど、二人の編集者が一度立ち止まって、「訳されない」という現象を、欠落としてだけでなく、構造として、効用として、これからのリスクとして、それぞれ別の角度から眺めたことには、たぶん意味があった。

翻訳とは、原書と訳書のあいだに走る一本の線だと考えがちだ。けれど、訳されない本というのも、たぶんもう一本の線だ。その線は、書店の棚に並ばないかわりに、編集者の机の引き出しに、訳者の作業ノートの欄外に、読者の本棚の空白として残っている。線として見える日が、いつか来るのかもしれない。

参考資料

  • 日本書籍出版協会「出版指標年報」関連データ
  • 出版科学研究所「翻訳出版動向」関連資料
  • 文部科学省「大学における外国語教育に関する調査」
  • 沼野充義『屋根の上のバイリンガル』(白水社)

東京ヴェルム 編集部

都市と暮らし、文学と工芸を綴る東京の編集誌 運営は 東京ヴェルムメディア株式会社。 ご意見・ご感想は info@tokyovelum.com までお寄せください。

編集部からのお便り

月に一度、編集部からの覚書をお届けします。配信解除はいつでも可能です。