TL;DR
- 祖父母・両親・自分の三世代が同居する家の台所で、出汁の取り方、味噌の量、ご飯の炊き方をめぐる、三世代の手の動きを観察した。
- 「家庭の味」は一本の継承ではなく、世代ごとの省略と再導入の繰り返しで作られている。同じ家のなかでも、合理化と回帰が同時に進行している。
- 食生活の世代差は、総務省の家計調査や農水省の食料需給表でも統計的に確認できるが、台所のレベルでは、もっと細かい交渉が日々起きている。
- 「正しい家庭料理」というものはたぶん存在しない。あるのは、その日の体力と素材で誰かが下した、小さな判断の連続だけだ。
世田谷の住宅街、築四十年の二世帯住宅。一階に祖父母(Aさん八十二歳、Bさん七十八歳)、二階に両親(Cさん五十三歳、Dさん五十歳)、三階に独身の私が住んでいる。料理は基本的に階ごとに別だが、日曜日の夕食だけは、一階の台所で全員が集まる。私が記録のために、ある日曜の午後、台所に居続けて、三世代の手の動きを書き留めた。以下は、そのときの記録を会話形式に整理したものだ。
出汁——昆布、鰹節、顆粒
午後三時、Bさん(祖母)が大鍋に水を張り、利尻昆布を一枚入れた。夕方の味噌汁の下準備。一時間漬けてから火にかける。
三時半、Dさん(母)が二階から降りてきて、別の小鍋で鰹節を煮出していた。Bさんが声をかける。そっち、何作るの。
Dさん:夕飯の煮物の方の出汁。お母さんの昆布出汁だと、煮物には少し弱いから。
Bさん:ふうん。最近、私も昆布だけだと物足りないと思うことが増えたよ。年取ったかな。
四時、私が三階から降りて、味噌汁の手伝いに入る。顆粒だしは、今日は使わないんですよね。
Dさん:日曜は使わない。平日は二人とも疲れているから、顆粒で済ますよ。お母さん(Bさん)は、たぶん週に一度ぐらいしか顆粒使わない。
Bさん:私の母——あなたから見たら、ひいおばあちゃんね——は、顆粒だしは一切使わなかった。私が結婚した頃に、顆粒が出はじめて、母は最後まで嫌がっていた。私はそこは妥協して、いまは平日は使う。日曜は使わない。
三世代で、顆粒だしの使用頻度が、はっきり違う。農林水産省の「食生活実態調査」関連資料でも、出汁の取り方は、世代別の差が最も大きい料理工程の一つとして繰り返し言及されている。
味噌——買う、混ぜる、自分で作る
四時半、味噌汁に使う味噌をめぐって、Bさんが小鉢に二種類の味噌を出して混ぜていた。これは、白味噌と赤味噌を半々で。今日のお父さん(Aさん)の好み。
私が興味を持って訊いた。味噌って、ブレンドが普通なんですか。
Bさん:私は、毎日違うブレンドにしている。気温と、その日の具材と、誰が食べるかで変える。これは、私の母から学んだ。母は、味噌を自分で作っていたよ。樽が縁側にあって、毎年仕込んでいた。
Dさん:私は、味噌は買う一択。それも、決まった銘柄を二種類だけ。二種類のうちどっちを使うかは、その日の気分で決めるけど、混ぜたりはしない。
私:僕は、スーパーで一番安いのを買って、ずっと同じ味噌を使ってます。
Bさんは、笑った。四世代分の歴史だね。仕込む、ブレンドする、買う、固定する。一世代ごとに、選択肢が一つずつ少なくなっている。
Dさんが補足する。でも、これは単純な劣化じゃないと思うんだよね。私は仕込む手間を省く代わりに、別の手間——たとえば、子どもの送り迎えとか、仕事とか——に時間を回している。それが正しいかどうかは別の話だけど、選んでいるのは確か。
裏を返せば、家庭料理は世代を経て「省略」されているように見えるが、その省略は、別の労働が増えていることの裏返しでもある。
ご飯——土鍋、炊飯器、レンチン
五時、ご飯の支度。Aさん(祖父)が、土鍋を出してきて、米を研ぎ始めた。Aさんはあまりおしゃべりな人ではないが、ご飯だけは自分で炊くと決めている。
Aさん:炊飯器はね、ご飯が均一に炊けすぎる。土鍋は、底とお焦げと真ん中で、三つの味がある。日曜のご飯は、その三つがあったほうがいい。
Cさん(父)が一階に降りてきて、米を計量するAさんを見ていた。お父さん、土鍋だと火加減を見るのに三十分は台所にいないといけないでしょう。平日は無理だよね。
Aさん:平日は、お前らの炊飯器のご飯を、二階で食べているよ。日曜だけだよ、土鍋は。
私の番。僕は、平日はレトルトのご飯です。レンチン三分。日曜にここで土鍋のを食べると、自分が普段食べているものが、ぜんぜん別の食べ物に見える。
Aさん:別の食べ物だね、たぶん。同じ「米」と呼んでいるけど、炊き方が違うと、栄養の話じゃなくて、食事として別物になる。
家庭の味——一本の継承ではなく、編まれた網
五時半、味噌汁、煮物、ご飯、漬物が並んだ。家族六人で夕食を取る。会話のなかで、Bさんが、ぽつりとこう言った。
私の母は、母の作るご飯と全然違う味噌汁を作っていた。私が作るのも、母とは違う。あなたたち(Dさん、Cさん)が作るのも、また違う。Mちゃん(私)が一人暮らしで作るのは、たぶんもう全然違う。同じ家庭の味、というのは、ないと思う。あるのは、その日その日の人が、選んで作った味だけ。
これは、レシピを継承する話としては、少し意外な見方だ。家庭料理は、世代を通じて「正しい味」が伝わっていく、という前提で語られがちだ。けれど、Bさんの語り方では、家庭の味は一本の継承ではなく、世代ごとに編み直される網に近い。何を残し、何を省くかは、その世代の生活条件次第だ。
裏を返せば、「伝統的な家庭料理が失われている」という議論には、留保が必要だ。失われているのは、特定の手順だ。継承されているのは、台所に立つという習慣そのものだ。工芸の世界と同じく、「何を継ぐか」よりも「どう編み直すか」のほうが、実態に近いのかもしれない。
世代差を統計で見る——けれど、台所では
総務省統計局の家計調査では、世代別の食料支出構造の差が、二〇〇〇年代以降、はっきり拡大してきたことが確認できる。米の消費量、味噌の消費量、即席食品の比率——どれも世代差が大きい。
もっとも、こうした統計は「平均的な傾向」しか映さない。この家のように、三世代が同居して同じ食卓を囲む場面では、統計値の差が、毎週日曜日に、台所のなかで再交渉される。Bさんが顆粒だしを使わない日曜と、Dさんが鰹節を煮出す日曜と、私がコッペパンの代わりに土鍋のご飯を食べる日曜が、同じ一日のなかに重なっている。
食卓の終わりに、Aさんが珍しく一言だけ感想を言った。美味しかった、と言うべきだろうけど、それは違うな。今日のは、いつもより複雑だった、というのが正しい。
家族全員が、しばらく黙って、頷いた。
同じ家のなかで、合理化と回帰が同時に進行している。これは、家庭料理に限らない、たぶん多くの「生活の継承」に共通する構造だ。「正しい家庭料理」というものは、たぶん最初からなかった。あるのは、その日の体力と素材で誰かが下した、小さな判断の連続だけだ。
参考資料
- 農林水産省「食料・農業・農村白書」
- 総務省統計局「家計調査年報」
- 農林水産省「食生活実態調査」
- 魚柄仁之助『食生活が激変した昭和三十年代』(青弓社)

